フランスでの生活
1934年(昭和9年) - 1936年(昭和11年)
フランスにおける永瀬の活動は、自ら遊学と称していたように特定のアカデミーに所属して学ぶという類いのものではありませんでした。フランスで暮らし、画家として活動するという実生活に根差したものでした。作品発表は、フランス国内や日本での美術展に自由に参加するという形を取っています。フランス在住の永瀬は日本創作版画協会のパリ会員として、日本でも作品発表を行っていました。
経済的に困っていた時ですら、その解決策を考えるのを楽しんでいるかのようでした。自分で作った人形を持参して人形劇で優勝し、仕事を得たことや、映画に準主役級で参加したこと、蚊取り線香をパリで売ろうといたことなど、フランスではさまざまなエピソードを残しています。
永瀬は、この時期20歳前後の画家岡本太郎と出会っています。ここに紹介する写真は、1934年(昭和9年)にパリの日本人会館で撮影されたものですが、永瀬は若き日の岡本を「なかなかのしっかり者」と評価しています。当時の岡本太郎はまだ本格的な創作活動をする前で、後に画家として名を成しユニークなパフォーマンスで有名になろうとは誰も思わなかった頃の話です。
二度目の結婚
1935年(昭和10年)永瀬44歳の年に、ある女性と二度目の結婚をしました。名前はテロンデル、フランス人と結婚し死別して未亡人となっていた日本人女性です。日本名はサトと言い、彼女には一人娘のシモンヌがいました。しかし、二人は何の障害もなく結婚。パリに移住し、生活を始めました。
この頃から、ドイツではヒトラーが台頭し、ヨーロッパは不穏な空気に包まれ始めます。人々の話題に挙るのは、世界情勢や戦争の気配といったもので、永瀬夫婦は帰国することを考え始めていました。永瀬はこの時期「日本はドイツに接近し始めるといった按配で、だんだんパリも住みにくい状態になりつつあった」と述べています。