東京で再活動
1952年(昭和27年) - 1966年(昭和41年)
この年永瀬は、第6回新樹会にポーショアという版画技法で作られた「巴里追想」「裸女昇天」などの作品を出品します。「巴里追想」は、永瀬がフランスに滞在した1930年代のパリの女性を描いたものです。アールデコ風の装飾的な表現は、永瀬が当時の思い出をいかに懐かしんでいるかをしみじみと伝えています。女性のファッションも当時のものでしょう。この作品は、女性の体型を特徴的に捉えたデザイン性の強いものとなっています。
一転「裸女昇天」は、たいへん幻想的な世界を展開しています。空中に浮かぶ10体の裸女、ほとんど暈けたようにしか見えないさまざまな女体の輪郭が、まるで天女が舞っているように表現されています。永瀬作品の特徴である「ルドンに通じる幻想の世界」があらわれた典型的な作品と言えるでしょう。全く同時期に制作されたこの2点は、とても同じ作家のものとは思えないほど違った表現方法を取っています。しかし、この二つの作品に共通としてあるものは、自分を憧れの世界へと導いてくれる女性なるものへの讃歌でしょう。永瀬は一生を通じてさまざまな技法を試みますが、そうした創作姿勢は終生変わることがありませんでした。この年永瀬は、妻のテロンデルと別居します。
1955年(昭和30年)に制作された作品のひとつに、「団欒」と題された版画の三部作があります。毛糸をまとめる女性、毛糸で遊ぶ子供、両手で毛糸を支える老人をそれぞれ描いたもので、三つの作品は赤い毛糸によって結び付けられています。新しい生命が加わった家族の喜びがほのぼのと伝わってくる自画像的な作品で、当時の永瀬の心境をこれほどあらわしている作品はないでしょう。作風としては大胆な平面構成を取っており、見る者に驚きとユーモアを与えています。また、平面構成の大胆さが過剰にならないよう渋い色調でバランスが取られているのも注目すべき点で、驚きと同時に抑制のきいた落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
さらに翌年に制作された子供をテーマとする「月あかり」は、いかにも永瀬らしい神秘的な作品に仕上がっています。両足をひろげて無邪気に小用を足す裸の子供を中央に配し、背後には薄明かりに浮かぶ夜汽車や人影が描かれ、何ともユーモラスで超現実的な世界が展開されています。子供の誕生は永瀬にとって、たいへん大きなことだったのでしょう。永瀬はほかにも家族や子供をテーマに、多くの作品を残しています。
衰えることのない創作活動
1950年代後半から60年代にかけて永瀬は、棟方志功らを中心とする日版会や光風会、日展などを中心に作品発表を行なっていきます。永瀬の作風はますます形や色彩の自由度が増し、特定のスタイルに捉われない傾向が強くなります。永瀬はあくまでも具象表現の画家でしたが、中にはほぼ抽象表現と言ってもよいような作品も生み出されました。
1963年(昭和38年)に発表された木版画「風化」、ここにあるのは対象を描写しようとして出来上がった作品ではありません。「風化」という言葉から生まれた永瀬の心象風景です。基本的には木版によって作られていますが、画面全体に乾いて荒れた感じを表現するために、雑版が併用されています。中央の赤い円が何を表現しているのか、画面下の曲線は山なのか、という疑問は意味を成しません。この作品は、「風化」という言葉から発せられる映像的なイマジネーションを、作家と鑑賞者との間で共有できるかどうかがポイントになるからです。これは、作品を介して作家側から発せられた、観る側への問いと言えます。
1966年(昭和41年)に発表された「バレー三態」。永瀬は、1960年代後半から合成樹脂による版画を制作するようになりますが、この作品はその先駆けとなるものです。バレーの躍動感を出すために、永瀬は樹脂の持つ自由な動きを採用しました。戦後一世を風靡したアメリカの画家ジャクソン・ポロックのドロッピングアートを思わせますが、こうしたアンフォルメルな表現は1960年代の特徴でもあります。この作品から伝わってくるのは、バレーの動きに対する永瀬の感情です。もともと永瀬は、描く対象に向けての感情を作品に色濃く残す作家でしたが、ここではそうした傾向がさらに徹底した形で実践されています。このような動きのある自由な線に対する偏愛は、晩年さらに強くなっていきます。